授業の最適な形態
授業の形態を最適化したときに、ネットはどの程度寄与するのだろうか。
ネットの登場で大きく変化したのは、自習の際に利用できるリソースの量だ。本しかなかった時代とは比較にならない。学問体系を獲得するのに最適なメディアは、ネット登場後の今でも「本」なのだけれども、どの本を読むべきかという知見はネットで容易に手に入る。ネットが登場する前後で最初に大きく変化したのは、授業時間ではなく、自習時間であった。
知識のリストにいつでも容易にアクセスできて、疑問・質問があればネット内のコミュニティで大勢とやりとりして、沈思黙考したけれ好きな時間にネットを遮断する。教科書は手元にあって、本を開けば学ぶべきことが書いてあって、それらの解説はネットを介していつでも参照できる。そんなときに授業の意義はどこにあるだろうか。
自習では入手困難な知見で、授業時間でなら入手可能であるような知的体験とは何かを考える。授業が自習と一番違うのは、それが自習ではない、ということであろう。短い時間、狭い教室を教員と生徒で共有している。そのような場を共有してこそ手に入る知的体験はあるだろうか。なければ学校で授業を受ける必要はない。授業を最適化するのなら、そのような知的体験を与えるように最適化すべきである。
時間と空間を、教員と複数の生徒で共有してこそ入手できる知的体験。生徒全員がネットを駆使して質の高い予習と復習をこなした上で、教員の前に机を並べ、授業時間を楽しみに迎える。そこで展開される授業は、知識獲得の過程の共有、勉強にまつわる身体感覚の共有を含むはずだ。
地動説を学ぶのに必要な時間は数秒だ。その根拠を知るのも数分の自習で済む。授業で学びとるべき事柄には、毎日の太陽の運動や月の運動に気づいて天動説を創造できる知力の獲得を含むはずだ。
教員は生徒より圧倒的に知的訓練を積んでいる。そんな教員の、たとえば数学の式変形の過程におけるオーディオ・コメンタリーは、授業だからこそ得られる知的体験の代表例の一つである。教員が板書を書き誤って、その誤りに自分で気付くそのタイミングを見ることは、ナイスな知的体験の一つだ。
生徒が違えば難しく思う場所も違う。そういった生徒が各自の疑問点を授業中に適宜質問する。その質問の台詞の組み立て方を通じて、各人の思考法を感じ取る。各質問に対する教員の回答を聞いて、各教員の思考法を感じ取る。
そういう感じ取り方を最適化するような授業を教員は心がけるべきかもしれない。
「家にいるときボク一人じゃ勉強できないから、さぼった時に先生が叱ってくれるところでネットを使うのが一番」とかいう「お子様」に付き合わないようにすることも重要かもしれない。
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