2020年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月24日 (水)

ひどいはなしだ

・今年もまた来た。大学に求人に来て企業の説明をしながら「大学での勉強など社会に出たら役に立ちません。」と断言する人。それなら大学に求人に来なければ良いのに。新卒とそれ以外の差が大きいことは今も昔も大問題になっているのだし。…博士課程まで進んだ学生の求人が無いのは、こういう訳なのであろう。


http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51155897.html


ついでに、「勉強が出来る」が「頭がよい」ことでない説明も。
勉強って、ほとんど頭使わないよね。
人様に言われたことを、やればいいんだから。

読んで誤解する若者が多数排出しそうな、とても嫌あな予感がする。こうして、学問畑の人間がますます尊敬されなくなるのであろう。「ベンキョー→有名大学→サラリーマン」のモデルとあわせて、サラリーマンがますます軽蔑されるようになるのであろう。学問畑に生きているサラリーマンであるところのわたしは、憂鬱である。

2008年12月22日 (月)

冒険支援に関する離散集合

池田信夫 blog:イノベーションは技術革新ではない

本書は(中略)イノベーションの本質は技術革新ではないと論じる。(中略)

多くの場合に(製品開発の)ボトルネックになっているのは、技術ではなくマネジメントである。(中略)

重要なのは、経営者が技術の生産者ではなく消費者としてすぐれたサービスを実現することだ。

昔読んだ名エントリを並置してみたりして。

My Life Between Silicon Valley and Japan:直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。

ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を褒める」というのは「ある対象の良いところを探す能力」と密接に関係する。

「ある対象の良いところを探す能力」は、優れたマネジメントを実現する上で不可欠ではないかと。「褒める」能力は、ブレーンストーミングの最中でも顕著なように、すぐれたサービスを生み出す過程に不可欠ではないかと。

「新規のサービス」って、思いついたときにはチープだったり突拍子もなかったり、きっと箸にも棒にもな代物なんだろうと思うけど、そういうのを「くだらない」と一刀両断するのではなく、褒めあって批評しあってVCの審査とか社内の予算審査に耐えられるようになるまで研く。そういうプロセスは本来楽しさを相当含有しているはずだし、とても重要なのではないかと。

技術革新が生起する瞬間に立ち会える確率は高くない。ある技術が「革新」であることが認知された瞬間にはネットを介して共有されるのかもしれない。けれども、生起したあとコモディティとなるまでの間にはタイムラグがある。革新的な技術も最初は未完成な状態で世に出ることが多いから。

マネジメントのことは良く知らないけれども、おそらく人材の離散集合はマネジメントの要(かなめ)であろう。革新的な技術の「面白さ」を未完成な状態で見抜き、未完成ながらもその技術を創造した人を褒めて、未完成を完成に近づけるために素早く集合してチームを作って、その技術を磨く。

そういう作業を、当該分野の同業者(=革新を自分で作り出すことが出来なかった人=その技術を作り出した人にある意味敗北した人)が出来ないといけない。

2008年12月19日 (金)

統計データ科学事典

統計データ科学事典Book統計データ科学事典

販売元:朝倉書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

各項目見開き数ページで解説。網羅している語彙数も多いけど、それぞれの内容もそれなりに高度で、眺めているだけですこぶる勉強に。猛烈にお奨めです。

2008年12月15日 (月)

WALL-E

WALL-E
飛行機の中で観た。画質も悪くて音響もひどかったけれども、面白かった。

べらぼうに緻密なCGによる世界のリアルな描写。虫けら以外の生き物のいない終末の世界のリアルな描写。主人公WALL-Eは汚れていて、重力や地面の凹凸に逆らえず破損と修理を繰り返し、定期的に充電しないと動けなくなる。でも、その造形とか個性は暗くなく、自由を謳歌していて、性格はからっと明るい。

終末の世界に天から降り立ったEVEは、重力からは自由で、傷も付かず、輪郭は薄く発光していて浮世離れしている。でも強力な破壊兵器を持っていて、ミッション達成のために行動していて自由はなく、出自は明るくない。

世界もキャラクタも緻密に描画されていて、必要な部分には物理シミュレーションに基づいたCGを適用していて。一方シナリオはCGが緻密かつリアルなのとは対照的に、エピソードや見せ場のすべてを説明するわけではなく、観客がこれまでに観てきた作品とか神話とか物語の「素」を喚起しつつ必要な事柄だけを示しながら進められる。例えば、映画の中では幾つかの奇跡がおこって、それらが「奇跡」であることの説明は多くはなされず、時間的にはあっという間に起こる。でも、我々観客はそれぞれの奇跡を「奇跡」として受け取ることができるようになっている。

そういえば、WALL-Eは表情の表現のためのパーツを持たない。でも感情豊かで、手足の動作や眼のためのカメラの傾きとかレンズ内の絞りの動作だけでそれら感情がわれわれ観客に伝わる。一方のEVEには表情表現のためのディスプレイがあって、でも感情はWALL-Eと比べると希薄だ。

背景美術の極端にリアルな、歌舞伎とか狂言に近い印象を持った。

2008年12月14日 (日)

もの

Book風の十二方位 (ハヤカワ文庫 SF 399)

著者:アーシュラ・K・ル・グィン,小尾 芙佐,アーシュラ・K・ル=グウィン,Ursula K. Le Guin
販売元:早川書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

11番目の短編「もの」。煉瓦職人と子供を抱えるやもめの話。世界が終わりつつあっても、嘆きもせず破壊もせず。思い出しては、たまに読み返す。

モーフィアスとかアラゴルンとか。

2008年12月12日 (金)

こどものころ

極東ブログ:教育について


さらにいうと、私は初等教育は地域の人が先生になるとよいと思っている。警察官に学ぶ、魚屋さんに学ぶ、コンビニのバイトにお姉さんに学ぶ、と。子どもはやがて地域の人になるのだから、そういう人になるという目的がはっきり見えるとよいと思う。


転勤続きで育って「ふるさと」にあこがれる身には、すこしうっとりする光景。わたしが小学生のころの「地域の人」は子供会や少年野球チームでお世話になった、友達のお父さんやお母さんたちだった。今思えばいろいろなお父さんがいたし、野球の練習中やそのあとで色々話したものだった。そういえば、近所の大学生のお兄さんで野球好きの人がコーチに来てくれていて、彼からはいろいろオトナな話を聞いてドキドキした記憶もある。


SATのような達成水準を大学組織で提示して、それを段階的に習得させる学習体系があればよいのではないか。


現状は、高校で使われている教科書と指導要領が、大学入試問題を作成するときの拘束条件になっている。大学での教育プログラムが入学レベルを要求する、という本来あるべき姿とは逆向きになっているかもしれない。


特に、民事訴訟はどのように行うかということは一教科にしたらよい。もう一つやって欲しいのは、「お父さんお母さんの税金」という科目を作ることだ。市民がどのように公僕を養っているかという仕組みは中学生くらいでしっかり知っていてもらいたい。


裁判員制度を導入する御利益は、裁判に参加する我々国民の「公民」科目に関する経験知が上がることではないかと思う。税金の話とか三権分立の話とかは、自分が子供に話すつもりでいたけれど、学校で習ってくれればそれでいいかな、とも思う。


茄子の花


わたしの父は週末に家族をよく山に連れ出してくれた。いわゆる「キャンプ場」で大勢と群れるを嫌い(というか憎んですらいた)、ひと気のない普通の山里に。その行先は毎回父が決めた。ひょいと仕事帰りに5万分の1(だったかな?)の地図を買ってきて、その地図を見て面白そうな場所=ひとはいなくて、散歩ができて、飯盒で飯を炊いて家族で昼飯を食べて、鳥とか虫とか花を見て帰ってこられそうな場所を探し出すことが得意だった。茨城の山の小川で見た、水中の岩肌で銀色に光る水蜘蛛を見つけた光景は忘れられない。地図から目的地を見つけ出す能力を父から引き継がなかったことは、後悔している。


生命や宇宙というものに、ある実感をもった。


finalvent氏と同種のものかどうか分からないけれども、わたしにもある種の実感はあって、この手の実感が自分にとっての分厚い土台になっているらしいことに気づいたのは、随分と歳をとってからであった。自分の子供にも築いてほしいし、そのための機会をできる限り与えたい。

2008年12月11日 (木)

Information Projection

今日のplenary talkはSong-Chun Zhu氏による "Learning Explicit and Implicit Visual Manifolds by Information Projection"だった。本会議におけるこれまでのplenary talkの中では、ピカイチの講演。スライドが公開されていた。
スライド

2008年12月10日 (水)

Content based image retrieval

今日のplenary talkはTheo Palidis氏の "Limitations of Content-based Image Retrieval"。

検索語に対応する画像を検索してきたり、新しい画像に検索に適したタグを自動的に付したりすることが、現状でどの程度できていて、何が問題か、に関する講演。現状の技術レベルは満足のいくものではなくて、だからどうしたとか、だからどうすべき、とか、そういう話。

たくさんの画像+タグの組を与えて、学習アルゴリズムに任せたところで到底満足のいくレベルの(一般的な)image retrievalは実現できない、と確認することから開始。一方、アプリケーションというか画像の種類をある程度限定すれば実現できることも確認。

講演内容に目新しい話はなく、学習に利用できる画像の枚数が膨大になって、なおかつ学習アルゴリズムの性能が上がってきていて、そんな状況を踏まえて舞い上がってしまって一般的なimage retrievalが実現できるような気がしている人たちに「少し落ち着いてね」と諭すような講演であった。

昨今流行りのSIFT特徴量が現状では最も使える特徴量であり、学習に基づいて抽出すべき特徴量を決定する手法は破綻するだろうと指摘していたのが少しだけ新鮮というか、言い切っていいんだと感じた次第。

最初の検索性能は低くても、検索結果に対する利用者の評価のフィードバックを蓄積できる気もするけど、pattern recognitionの学会では、そういう結論しかありえないのであろうと思う。

2008年12月 9日 (火)

タクシー

Clearwaterまでタクシーで夕日を観に。真っ白な砂浜の続くきれいな海岸。ずいぶん久しぶりに、水平線に沈み切るまでの夕日を眺め続けた。よかった。

タクシーの運ちゃんが話す「運転のできない連中」とは
1. マリファナを吸いながら運転する
2. 酒を飲みながら運転する
3. 携帯で話しながら運転する
4. 化粧をしながら運転する
とのこと。携帯で話しながらが3番目に出てきた。4番目はたたらを踏んだ面白さか。

以前運転中に落語のCDをかけたら、噺に集中して運転がおろそかになりそうで怖くなって、すぐにCDを止めたことであった。運転に必要な処理には、物語の処理と脳の中で競合するものが含まれているのではないか。印象として、車の運転中のTV・携帯・落語は論外だ。

Tampa

Pattern Recognitionの会議でTampaに。7つのパラレルセッションのある「全国大会」風のお祭りの会議。

Plenary talkはAnil Jain氏の "Data Clustering, 50 Years Beyond K-Means"。数十億の画像を数百万のクラスタに、って具合の大規模な問題が昨今の話題のひとつとか、いろいろ。

「クラスタリングの手法に決定打はない」という指摘はいろいろな人がしていて、その通りだと思うけれども、それはクラスタを決定しているモデルの不在を意味していて、問題によってはラベル付の任意性と無関係ではない。「決定打」はなくてもアプリケーションを作るときには切実に必要な技術で、だからこそ各種スマートな手法が継続的に発表され続けていて、でも決定打が存在し得ないゆえに(と言っていいのかどうか分からないけれども)パターン認識の分野は学問の「体系」を構築するには至っていないように見える。

2008年12月 8日 (月)

<食器洗い機>

<食器洗い機>の登場により、食卓の道具がすべて食器洗い機対応のものになって、器の形や大きさも食器洗い機で洗いやすいものにばかりになって、食器洗い機に対応してない道具は亡びることになる。ことはないと思う。そもそも、鍋釜とか食事を作る道具を食器洗い機はカバーしないと思う。

2008年12月 4日 (木)

ひでぶ。

がーん、既に亡んでいたのか。なんということだ。

池田信夫blog: 日本語はすでに亡びている

日本語の本しか読まないビジネスマンは、世界から取り残されている

職種や環境によっては英語は必須だし、英語が不得手なことで沢山のチャンスを逃すことは痛感してるけど。でも、社会にはいろいろな仕事があって、会社にも色々な部署があって、日本語の本しか読まなくてもやっていける人っていっぱいいる。あたりまえだけど。

日本語が亡びるのなら、それは国土が沈没して国民が大陸に四散するか、「帝国」が侵略してくることをきっかけとする気がする。

tatemuraの日記: 『日本語が亡びるとき』を読む

日本語を大切にし、それを磨き上げる人たちがいなければ筆者が言うように日本語は廃れていき、「この時代になんで日本語なんか使う必要があるの?」という疑問に直面することになろう。

そうかなぁ。直面なんかしないと思うなぁ。

現地語に「堕ちる」って感覚が、自分の感覚と、真逆だ。現地語の「現地」って、生きる現場そのもののことじゃないのかなぁ。赤ん坊をあやしたり子供と笑ったり妻と四方山話をしたり親や祖父母を見取ったり独り悩んだり遺言したり。そういう現地で発せられる言葉。それこそが「言葉」だと思うけど。それは必要性とか利便性で選ばれてるのかしらん。どうなんだろう。

世界とネットワークを介して接続できて、直接情報交換できること。そのことによって会社や国を含めた社会システムのあり方が変化するのだろうけど、だからどうした。<帝国>の存在が地表における人―人の物理的距離の意味を完全に剥奪することなどありえない。特に肉声が届き手が届く距離の意味は剥奪できない。<帝国>が全ての人を共通シミュレータの中に押し込めるわけではない。日本語なんか使う「必要あるの?」という疑問の入り込む余地は小さい。

「現地」抜きには生きられないとパズーとシータも言ってたじゃないか(言ってない)。いのちは闇の中のまたたく光だとナウシカも言ってたじゃないか(だからどうした)。

2008年12月 3日 (水)

ランダムサンプリング

20081203154529_2

ランダムサンプリング。解析的に解けそうにないので、MCMCを使うことに。そのためのベンキョー。 

さいばんいん

裁判で人が裁いたり裁かれたりする現場をみて、スキャンダルでゴシップなネタに浮かれる要素と法を執行する際の手続きの厳密さ加減を知る要素の二面あるんだろうと思う。こわいなぁ。

2008年12月 2日 (火)

ペネロペ

ペネロペは3歳でありながら、自分の部屋で一人で寝ている。原作はフランス?異国には、そのように早い時期から子供ひとりで寝させるところがあると聞き及んでは居たけれど、まさか、うっかりもののペネロペまで。断乳を早くに済ませて、夜中に目を覚まして泣いたときには親が駆けつけて、ということかしらん。我が家の育児では想像もできん。

2008年12月 1日 (月)

流行語

後に今年を思い出すときのタグとして有用なんだろうと思う。それにしても、知らない単語が多いのがショックだ。ぐーは知ってたけどあらふぉーは知らなかったし。

安野光雅「ふしぎなえ」

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081201/1228090617

これ(「ふしぎなえ」)は名作なんですけど、見る人によって異様な魅惑をもつかというのはあると思う。(中略)

この手の感覚は生得的な脳機能的なものだろうと思う。

あの魅惑が「見る人よって」のもので、生得的な脳機能のようなものに依存するとは、高校生の昔のころは思いもよらなかった。

以前は、人工知能とか画像認識とかに興味があってその道の研究者になった人には、あの手の感覚の強い人が(全員ではなかったにしても)多かったように思う。私の先輩とか上司とかにも多かった。画像認識の研究を進める上では、むしろあの感覚に拘ってしまう自分が最初は鬱陶しかったし、問題を定式化する上では弊害ですらあった。

(そういえば、鉄腕アトムにあこがれてロボットの研究を始めたり、研究を続けるモチベーションにしたっていう話を良く聞くけれども、そしてそれはある程度本当だろうけれども、本当に動くものを作り上げる上ではむしろ弊害のほうが多いんじゃないかと勝手にわたしは思っている)。

昨今の画像認識に関する研究の進展というか統計的手法の著しい発展で、例えばデジカメに顔検出器が乗っかったりするようになって、で、そういう成果の多くはあの手の感覚が喚起する魅力とは少し離れた、統計・数学の世界から生み出されている。

「魅惑」を神聖なものというかウェットな思い入れとともに大切にするのではなくて、魅惑を大切にしつつもドライに(数学的に)定式化して(工学的に)実現する力が必要なのであった。…というか、神聖なものにウェットな湿り気を感じるのはわたしだけなのか、日本特有なのか、世界的にみてどうなのか、よくわからない。

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »