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2010年12月

2010年12月30日 (木)

ZhuZhu Pets

ズーズーペット

おしゃべりしたり、おかしな音をさせながら、元気に走り回るペットです。お部屋の壁やズーズーペットどうしでぶつかると、方向をかえて進んだり転んだりするよ。

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最初、「ペット」単体で(娘に)買ったが、父親からみると、可愛くも面白くもなかった。奇声を発してうるさいオモチャにしかみえなかった。が、走行用通路付きの「部屋」を買ってはじめて楽しみ方が分かった。なるほど人気がでるわけであった。

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amazon評に「女の子版プラレールの予感」とあった。言い得て妙だと思う。女の子版プラレールのズーズーペットはプラレールの電車のように整然とは動作しない。むしろ、ペットの思いがけない動作を楽しむオモチャである。

 

ペットの基本動作は床の直進。ただし、壁面にぶつかるとバックして方向を転換するし、ぶつからなくてもたまに走行方向を変えたりバックしたりする。部屋のレールの底面に凹凸があって、その凹凸の上をペットが走行しても動作モードが切り替わる。(ただし、作りがあまり精巧ではないので、モード切り替えに頻繁に失敗する。)動作モードの切り替わりとか、レールにひっかかるとか、転ぶとか、色々な要因で思いがけない動作をする。その思いがけなさの程度は、本物のペットの代替として感情移入するには程遠い。でも、プラレールの電車と比べると偶然の要素がとても多く、走行経路の短さの割りには見ていて飽きるまでの時間が長い。

 

「ペットの部屋」の組み立てと取り壊しがプラレールと比べると圧倒的に面倒で片付けるのに苦労する。ある程度家が広めで、ペットの部屋を出しっ放しにしてもさほど鬱陶しくない環境じゃないと、子供のママ達は買ってくれないだろうと思う。我々も日本に帰ったら、このズーズーペットを持て余す気がする。

Particle videoを使うときの覚え書き(1)

particle videoを使った比較実験をしつつあるので覚え書き。

linux kazu 2.6.31-20-generic .. ubuntu, x86-64 GNU/Linux

  1. Open CVのインストール。
    最新バージョン(2.2)をインストールしてもparticle videoが動かなかったので2.1をインストール。
    cmake, doxygen, g++, python2.6も。
  2. particle videoのコンパイル。
    ParticleVideoLibとSimpleBaseLibの下のbuildでそれぞれmake。ParticleVideoLib/sampleの下でmake。
  3. aviのcodecにhuffyuvを要求されたのでインストールしてからテストしたい画像のcodecを変換。

    ffmpeg -vcodec huffyuv –i original.avi test.avi
    変換後の画像をParticleVideoLib/sample/dataに格納。(sample/pvsampleは./data/にあるデータを入力とする。)

  4. cd ParticleVideoLib/sample ; ./pvsample flow  test.avi 100などとする。最後の100は処理したいフレーム数。

  5. ./pvsample pv test.avi 100

 

開発者のスキルの光るコーディング。開発やテストがしやすいようにoptical flowの算出とtrackingの計算を分けていて、パラメータ各種は別ファイルになっていて、各種入力データのフォーマットも明瞭。optical flowのテキスト入力を許容しているので、optical flowのみを自前で求めてあとのトラッキングを任せて比較する、といった実験も容易。

2010年12月29日 (水)

モリニュクス問題

Molyneaux’s Problem

Suppose a blind man learned to identify a cube and a sphere by touch. If the shapes were then laid before him and his vision restored, could he identify them by sight alone?

先天的に盲目の人が、立方体と球を触覚により識別することを学習したとする。仮に立方体と球がその人の目の前に置かれ、彼の目が見えるようになったとき、その人は見た目だけでそれらを識別できるだろうか。

モダリティの異なる計測データ間の写像の問題に落としてみる。

 

触覚だけで立方体と球を識別することを学ぶ過程で、大きさやテクスチャや重さの異なる立方体と球を何回も触り、大きさとかテクスチャとか重さに関する触覚の特徴が捨て去られる。そして、触覚に基づく識別に有用な立方体モデルと球モデルが獲得されるのだろう。この学習の過程で、識別に適した手指の運動法も学習されるであろう。

 

触覚の学習のあと、視覚により立方体と球が知覚される。もちろん、頭の位置を動かすことは許されるのであろう。両眼でしかも頭を動かしながら対象を観測すると、3次元の形状が知覚される。立体の各位置の曲率も知覚される。ただし、陰影や模様も知覚される。

 

対象を見ながら触るという経験をしたことがないので、触覚データと視覚データの間の対応付けが未学習。このため、

  • 「触覚による識別用の立方体モデル」から「球の視覚データ」への写像
  • 「触覚による識別用の立方体モデル」から「立方体の視覚データ」への写像

上記それぞれの写像をこれまでの経験と矛盾させることなく構築することができてしまう。このことから「立方体と球は識別できない」という結論を導出するのが妥当な気がする。特に、各立体に模様が書いてあったり、模様はなくても陰影があるときには、触覚モデルに基づく視覚データの識別はより困難になる。モデルからデータへの写像を一意に推定することは無理だろう。

ところで。

目が見えるようになったあとも見ながら対象を触ることはせず、様々な立方体や球を、様々な視点・照明条件で見て、視覚により両方の立体を識別できるように学習したとする。ただし、触覚による学習の時に使われていた「立方体」と「球」という呼称は使わずに、例えばそれぞれを「立体A」と「立体B」などと呼んで識別できるように学習する。視覚による学習の後では立方体と球の幾何的な定義に近いモデルを獲得しているであろう。照明の変化に対する見えの変化のモデルも獲得できているかもしれない。

 

立体Aの幾何モデルと立体Bの幾何モデルが与えられていて、どちらかが立方体でどちらかが球だとする。そして立方体と球の、触覚に基づいたモデルなら持ち合わせているとする。この状況でなら、立体AとBのどちらが立方体でどちらが球かを対応付けることができるだろうか。見ながら対象を触ったことがないから、まだモデル間の写像には任意性がある。でもモデル間の写像の単純さのようなものを基準にすれば、対応付けられるのかもしれない。写像の単純さのような基準は触覚もしくは視覚による識別モデルを学習する過程で獲得されるようにも思う。もともと立方体と球の違いは幾何に基づいて定義されていて、その定義に沿った特徴量が触覚による識別の際にも学習されているのであろうから、異なるモダリティのデータに対する立体識別用のモデルがそれぞれのモダリティで学習されていれば、それらモデル間の対応付けはできてもおかしくない。

2010年12月28日 (火)

スカーレット・ヨハンソン@Saturday night live

http://www.hulu.com/watch/193068/saturday-night-live-hollywood-dish-with-scarlett-johansson?c=90:135

このビデオはトルコ出身の学生に教えてもらった。面白かった。

でも、ロスト・イン・トランスレーションは次の評(超映画批評)が指摘するような映画だった。

当の日本人が見たら、気分を害する人が続出することは間違いない。実際は、アメリカ人に対しても風刺した側面があるのだが、それは、ある程度映画を深読みできる人でなければ感じることは難しい。

てんぷらさしみー

Johns hopkins univ.から来た学生に教えてもらった。爆笑した。

2010年12月27日 (月)

才能=魔法と社会

魔女の宅急便を久しぶりに観た。主人公のキキは最初の仕事で、風で飛ばされ森に落下し、そのせいでカラスたちに攻撃される。「大昔の魔法使いはカラスを手懐けていたのに、カラスに攻められるなんてね」と相棒のジジにからかわれる。その直後、カラスを手懐け、カラスの顔をスケッチする絵かきの娘と出会う。森の中の絵かきの娘は、「魔法使い」であることが分かる。魔法=才能であり、映画は魔法が使えなくなったキキの苦闘の物語である。

 

キキが魔法を使えなくなったのは、その魔法を「私物化」していたからではない。そのきっかけのひとつは、自分の魔法に自覚的になったことから生じる恐怖であろう。魔法が使えなくなる直前、魔法のない状態でトンボと自転車に乗って車と衝突しそうになり怖い思いをする。生まれながらにして血により魔法が使える者にとって、魔法が使え「ない」状態を想像することは難しい。そして、魔法の「ない」状態と「ある」状態の差を実感する機会はなかなかない。トンボとの出来事は自分の魔法への自覚を促す。そして、より怖いのは、魔法を失うことにより社会での立ち位置を失うことである。キキの場合は、飛べることをきっかけに宿を提供してくれているオソノさんの信用を失ったり、飛べることで自分に興味を持ってくれたトンボを失うことである。魔法が使えることによる過剰な自意識や選民意識が怖いのではない。

 

キキは映画の中で多くの人に助けられる。オソノさんに宿を提供され、トンボは友となってくれて、森の絵かきは相談に乗ってくれて、おばあさんは仕事をくれた。キキが最初に街にやってきて寝る場所もないときや自分の魔法の力が薄れたとき、キキを支えたのは彼ら・彼女らであった。彼ら・彼女らとの接点多くはキキの魔法=才能が作ったものだが、キキを彼ら・彼女らが助けたのはキキが魔法使いだからではなかった。キキには自分の魔法による社会貢献の意識などなく、それでも人はキキを愛し、キキはその愛に自分の魔法=才能を活かして常に報いようとしていた。

 

キキの魔法の復活は、トンボを救いたいから飛びたいと強く願うことで実現した。飛べるようになる直前、デッキブラシを借りて道路の真ん中で色々な人の目の前で、飛ぶために意識を集中する。ハタからみるとその様は不恰好であり、しかしその不恰好で必死なときを経て、キキの魔法は復活する。自分の天賦の才を純粋贈与として差し出すことで戒めが解かれた、そういった話ではない。

 

キキは飛べる魔法を使って宅急便の仕事をし、利益を得る。

 

魔法使いがその魔法で自己利益を得ているときに、その様子を観て周囲に居るものが「私利私欲に走る魔法使い」を殺す社会は住みにくい。魔法使いが殺されたとき、社会は魔法を失う。それは損失である。

 

魔法の持ち主を妬む人々が大勢居る社会は住みにくい。妬まれたのをきっかけに自分の魔法を私利獲得には使いませんと宣言してしまう肝の小さな小粒の魔法使いも多い。

2010年12月25日 (土)

LAでクリスマス

研究室にいくとポスドクの学生1名と客員の学生が1名。あと私。閑散としている。キャンパスの食堂が閉まっているので少し歩いて昼食を取りに行く。普通の休日と同じ。午後5時ころ家に向かうと、すれ違う車のなかから「merry christmas」と声をかけられること数回。変わったことといえば、それくらい。

 

先日買ったモミの木の下に今夜サンタクロースはプレゼントを置いてくれる。娘は「Here」とメモを書いて自分の写真と一緒に樹の下に置いていた。

2010年12月23日 (木)

大学とか就職とか

同じ日本で暮らしていても、見えている景色は随分違う。

矢張り「無事これ名馬」は日本を駄目にする―山口氏の誤解への弁明

そもそも私の投稿は「日本企業が最も欲しくない人材は『優秀でも会社への忠誠心が低い人材』で『黙って言うことを聞く人材』を何よりも求めている」と言う松岡祐記氏のアゴラへの投稿記事に驚き

ある種のカマトトである。驚くわけがない。起業が最も欲しくない人材は、上記文脈で言えば、「無能で会社への忠誠心の低い人材」である。そして会社が強い関心を持つのは忠誠心ではなくその人材へと分業できるかどうかである。また、「黙って言うことを聞く人材を何より求めている」という会社の人とは、少なくとも就職担当をしていた一年の間、出会ったことがない。黙って言うことを聞くだけの学生、言われるまで何もしない学生に対する会社の評価は低い。

学生を集めに大学に来ておきながら学生相手のセミナーで「大学での勉強など就職してから役には立ちません」と開口一番言った者は確かに居て、その者は「なんのために大学に求人に来たのか」と我々から追い払われたことであった。大学で身につけたスキルがすべての会社で役に立つわけはなく、役に立たないことが分かっていれば大学はその会社に学生を送り込むことをせず、会社は大学に求人に来ない。それで良い。大学で身につけたスキルや専門が活かせる場の大きさと、学生の数のバランスは問題であり、そのような場を大きくすることが景気対策の大きな目標でもある。自分の会社が要求するスキルを教育する機関が世間にないことは、教育機関の怠慢を必ずしも示唆しない。ただし大学卒業生の就職率が低下するとき、景気だけが要因ではなく、大学の怠慢を示唆している可能性はある。

大学のほかにも高専など様々な教育機関が存在し、それぞれの特色を持っている。各機関を卒業した学生のうちどの学生を重宝するかを各会社が明瞭に世間へとアナウンスするためには、例えば初任給の額に差を設けて明示するのが有用である。高専卒が大卒より有用だと判断する会社であれば、高専卒の初任給 > 大卒の初任給とすれば良い。実際、高専の教育プログラムの多くは充実している。大学にいくより他の教育機関にいくほうが就職に有利であるなら、そのことが高校生や高校教員に伝わることで、大学に学生が来なくなる。そうなれば大学の統廃合は加速される。

会社が大学に要求する事柄が変化しており、だから大学でも教育内容を工夫せよという要求はある。例えば工学部情報系であれば、プログラミングの教育内容をC言語+unixのコマンドのみで済ませて良いのか、といった事柄がそういう要求に対応する。教育プログラムのコンテンツは更新すべきだし、そのためには教員の不断の勉強が不可欠である。

教育基本法

(教育の目的)

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)

第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

不景気で非常時で国民総動員な昨今、教育の目的とか目標が浮世離れして見える。衣食足りて礼節を知る。食い扶持が不足していては、心身ともに健康になるのは難しい。

2010年12月19日 (日)

クリスマス・ツリー

クリスマスはアメリカでは1年で最大の祝日。日本の正月のような位置づけ。

クリスマス・ツリーは本物のモミの木を使いたい。寒い日に、家の中でfleshなモミの木の香りを楽しみつつ、暖炉に手をかざす。これがクリスマスの風物だ、とのこと。話しを聞いていたら我々もモミの木の「香り」を楽しみたくなったので、購入を決定。園芸屋へ。6ftの木とスタンド込みで50ドル。車の上に積んで帰り、苦労して部屋に設置して飾り付ける。

 

なるほど、針葉樹の森の香りがする。水やりを忘れないようにしないといけない。

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クリスマス・ツリーはクリスマスが終わった後、ゴミとして捨てたりせず、公園などにみな持ち寄る。そしてそれらは回収されるのだ、とのこと。この「クリスマス・ツリーは捨てたりしないで公園なんかでリサイクルされるんだぞ」と殊更に言っているのを聞いて、クリスマス・ツリーにゴミとして捨てるのをはばからせる神聖な感じがあるのだなと思ったことであった。

 

「良いお年を」という挨拶は英語では「Happy holidayだろう」とのこと。Merry christmasは相手の宗教のこともあるし、いかがなものか、とも教わる。クリスマスが1年で最大のイベントだと言ってる割には気を使う。

2010年12月18日 (土)

Software for Algebraic Geometry

幾何とか形状表現の分野のbig nameが誰かを知るのに。

IMA Annual Program Year Workshop

2010年12月17日 (金)

Google Body

Google Body。見せ方がかっこいい。まずは医学生に便利そう。

Google Body

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Google mapのように、将来、各人の病歴や治療歴を記録するプラットフォームになりうるか。

そのとき問題になりうるのは、体内の構造が人ごとに異なることか。

人ごとの構造を詳細に把握する新しい解剖学の運動が国内でおこっている。

計算解剖学

「計算解剖学」とは、個体差のある解剖構造を統計数理的に記述する計算解剖モデルの表現論・構築論・応用論を含めた新しい学術領域である。

地球、火星、人体。

計測できればプラットフォームに。つぎはどこだろう。

地球の海底はどの程度の分解能で計測が済んでいるのだろう。

海中の計測と観測は日本が切実に必要とする技術だと思う。

2010年12月16日 (木)

ヤンバルトサカヤスデ

ヤンバルトサカヤスデの蔓延が問題になっているとのこと。ヤスデは林で出会うとギョッとする。

街中で大量に発生されてはたまらない。

鹿児島市ホームページ:ヤンバルトサカヤスデのまん延防止

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【地域で協力し、ヤスデの生息しにくい環境をつくりましょう】

◇土手の草払いや下草刈りを徹底し、日当たりをよくし、暗く湿った場所をつくらない
ようにしましょう。
◇側溝は周辺も含めて清掃を徹底し、ヤスデが入り込まないようにして、雨水に流れて
移動することを抑制しましょう。

下草刈りは老人には重労働であり、側溝の清掃も時間がかかる。ヤスデ大量発生のようなときに下草刈りをしなかったり側溝の清掃をしなかったりする人が近所にいると正直迷惑であり、地元の人間関係がぎくしゃくする。老人や病人なら「仕方ない」し助っ人も現れうる。でも単にサボってるだけの人もいて、そういう人がいるときは人間関係がジメジメする。都市部でいえば、ゴミ捨てのマナーをめぐって同種の問題が起こる。問題となる人の国籍が絡んだりすると、なおさら話がもつれる。

 

先日久しぶりにトトロをみた。以前は雨宿りをしているサツキ・メイにカンタが傘を差し出すシーンでグッと来たものであったが、先日は病院からの電報のあとサツキが泣き出すシーンにグッと来た。メイがとうもろこしを抱えて病院へとかけ出して迷子になって、村の人達が総出でメイを捜索する。警察を呼ぶ前にムラ総出で捜索してることはあのシーンのキモだと思う。あのあと、サツキのお父さんや家主のおばあちゃんはムラのみんなか実力者にお礼に行くことになるのだろうと想像する。そして、そのお礼が遅れたり手薄だったりしたときに人間関係が湿ったりしなければ良いな、と思う。

 

住みやすい大きな社会の構築に必要なことはなんなのだろうと思う。

2010年12月14日 (火)

Scientific peer review, ca. 1945

Scientific peer review, ca. 1945

これも有名らしい。今日まで知らなかった。

普通におもしろい。いろいろ共感するところがある。すごい人がいるものだ。

2010年12月 8日 (水)

ナビサイト集中

就活生を救う意識改革 - 加藤智将

就活生には、“ナビサイトだけではなく、大学の就職課やジョブパークを活用する”という意識の改革こそが必要なのである。

会社から学生への情報流通経路を確認しようという視点は、とても面白いと思う。

 

大手から中小まで全国の会社の情報を各学生が取得できるわけもなく、海外を視野に入れなければ、多くの場合「全国の大手」と「地元の中小」の会社がターゲットになるのではないか。「地元」は関東とか中部とか、そのくらいの広さを持つ地域を指す。

 

大学が学生におこなう就職関連のサポートは、学科を単位とするところが多い。地元の会社の情報は、各学科の「就職担当」の教員を経由して学生へと伝わる。各学科には「就職担当」という役割があり、教授・准教授が毎年順番で担当する。就職担当になると教員は、毎日沢山の会社の人事課の人と会って情報交換することになる。就活期間中の就職担当の負荷は極めて大きい。会社の人との面会で長時間拘束され、内定に関する各種トラブルに対処し、なかなか決まらない学生を慰めたり激励したりする。ビール券の話とか昔はエピソードもあったようだが、とっくの昔にそのようなエピソードは皆無になっている。

 

それぞれの大学は、地元の企業に専用の採用推薦枠を持っていることが多い。すなわち、「貴校から○人の学生を採用したい。学生を推薦してほしい」といった依頼が来る。人気の企業であれば学生が集中し、その学内選抜の手続きも就職担当の仕事となる。この優先枠人数は景気の悪化で当然減少しつつある。しかも昔であれば大学が推薦した学生を当の会社が不採用とすることは稀であったが、昨今は面接で不採用と判断する事例が普通に見られるようになった。学生から見れば「有力企業の人事と面接できる」ことだけが魅力のシステムとなっている。特定の会社の推薦枠に入った学生は、その会社からの合否の連絡がくるまで他の会社からの内定を保留したり辞退したりしなければならず、そのタイミングによって様々なトラブルが起こる。

 

それはともかく、大学学生はナビサイトと学科の就職担当の双方を利用する。学科の就職担当は、大学に会社から送付される資料の処理や各会社から来る人事課の人との会談で忙殺され、新規の会社を開拓する余力はない。自分の学科の学生の誰の就職が決定し、誰が未定のままかの情報管理は、おそらく多くの大学で、学科の就職担当の教授・准教授がおこなっているのではないかと思う。この情報管理は簡単ではなく、相当の相応のコストをかけておこなうことになる。その間、当該教員が研究・教育のパフォーマンスを維持するのは至難の業である。

 

大学の就職課や就職担当に資料を送付するという最初の突破口を知らない中小の会社があれば、その会社に関する情報が学生へと届く確率は極めて低い。しかし、大学卒業生を採用したいと考えている会社が、その手の(非公式ではるものの常識となってる)手続きを知らないとは思えない。ただし、資料だけを送付する会社と、人事課が大学就職担当と直に会った会社とでは、後者の情報が学生に伝わる確率が高い。就職担当も学生に会社を薦める際には神経質になっており、学生との相性や会社の信頼度の評価に気を使う。そしてその評価は、人-人の会話の感触に依るところが大きい。このへんの機微に頓着してない会社はあるかもしれない。

 

追記

学生の「大手志向」が全く無いとは思わない。学生は就職に際して人生設計をするわけであり、会社を選ぶ際に倒産や規模縮小の可能性の高低を大いに気にすることになる。学生は、会社採用において新卒が優先されることを恐れと共に知っており、仮に自分の会社が将来倒産した際に再度別の会社に就職することが極めて困難であることを知っている。一寸先は闇かもしないけれども、出来る限り情報を収集し、先のことを可能なかぎり予測することは当然の行為である。会社の規模と倒産の確率の間に相関が全くないとは考えにくい。このような状況で大手の会社を志向する学生全員に、事実を直視せずブランドのみを希求する浅薄でお子様なイメージを塗りつけるのは間違いである。閉塞感は強い。起業することや海外に出ることも含めて、選択肢を広げることが閉塞感を和らげることなのだとは思う。

Obama Kicks Door Open

オチを知らずに見せられて、驚いた。よく出来てる。

obama kicks door open

2010年12月 6日 (月)

Conjugate Function in Convex Optimization

convex optimizationの話のキーワード「conjugate function」の解説はProf. Boydの講義が分かりやすい。

Convex Optimization I (Stanford) (@27:20)

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